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2016年10月14日金曜日

「ボブ・ディランと村上春樹」



午後十一時五十八分、世田谷区用賀インターから第三京浜へ、そして辻堂に向かってクルマは走っていた。午後十二時NHKラジオの時報が流れた時、私は一歳年をとった。

ニュースでタイの国王が死去したのを告げたあと、今年のノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞した事を告げた。村上春樹が予想では第二位だったが、今年も受賞をしなかったと。何故村上春樹がノーベル賞をと思われるのがよく分からない。
ボブ・ディランはそのオリジナル性が選ばれた理由だとニュースは教えた。

村上春樹の文学にはアメリカ文学の下敷きが色濃くあるのがオリジナル性に欠けていると判断されたのだろうか(?)フランツ・カフカにも影響を受けているというか、発想の方向がほとんどカフカ的である。
それにサリンジャー、フィッツジェラルド的世界観を加え、植草甚一、常盤新平、片岡義男的ブランドスパイスを効かせ、レイモンド・チャンドラー的トーンを盛り込むと、村上春樹的ワールドは生まれる。
私は村上文学は自らへのコンプレックス文学と思っている。
もし彼が身長180センチ、見るからにイケメン、スポーツ力に優れて陽灼けが似合い、ブルージーンズに白いTシャツが筋肉と共に日々の制服となっていたら、決して今の村上文学は存在しなかっただろう。私はそう思っている。

最も手紙も満足に書けない私の村上春樹へのコンプレックスかもしれない。
私はむしろ村上龍の方がよりノーベル賞的だと思っている。
何しろオリジナル性があり、現代文明に対して鋭く斬り込み、暗示性に富んでいるからだ。村上ファンのハルキストの人たち、勝手を書いてゴメンナサイ。
来年はきっと受賞するはずです。


♪~いったいどれだけの道を歩めば 人として受け入れられるのだろう いったいどれだけの海を渡れば 白いハトは休息できるのだろう どれだけの銃弾を打ち合えば 弾はそこをつくのだろう 答えは友よ風の中にある 答えは風の中にある…。
Blowin' In The Wind(風に吹かれて)をボブ・ディランはベトナム戦争真っ只中、ベトナム戦地のアメリカ兵の前で唄った。ジョーン・バエズと共に反戦の歌手であった。
フォークとロックとブルースの要素が入った歌を独特の音階としゃがれた声で唄う。
ボブ・ディランの歌い方はクルーナー唱法といわれ、囁くような優しい唄い方だ。

あらゆるミュージシャンはボブ・ディランを追った。ビートルズも。
文学的、宗教的、哲学的、反戦のメッセージ・ソングがすっかり聴けなくなった。映画「ビリー・ザ・キッド」の主題歌「天国への扉」は私をしびれさせた。
ビリー・ザ・キッドはご存知西部劇の無法者である。

イーグルスの名曲「ホテル・カルフォルニア」、レッドツェッペリンの名曲「天国への階段」は私のベストソングであった。
無法者を 戦争好き国家アメリカに置き換えると、アメリカがいかに病んであの世へ向かっているかが分かるはずだ。
ヒラリー・クリントンとトランプとの虚しい姿を見るとその答えが風の中に舞っている事を知る。

♪~またひとつずるくなった 当分照れ笑いが続く。
ボブ・ディランに憧れた泉谷しげるの歌が聴こえてくる。
私は一つ歳をとって、またひとつずるくなった。
そしてまた一歩、天国か地獄に近づいた。(文中敬称略)

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