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2017年9月1日金曜日

「純文学(?)」

ヒモは三日やったらやめられない。
純文学が低迷しているという。
中でも私小説は作家がでない。
WHY何故か(?)どうしようもない男がいなくなったからだ。
特に小説家を志すヒモ(ジゴロ)がいなくなった。
すべてに「だらしない男」しか私小説は書けない。
文学は「大衆小説(中間小説)歴史、冒険、剣豪、エロ、変態、山岳、紀行」など本の数だけある。
が、純文学という文学に「純」がのかっているのは私小説だ。
実は純文学→私小説は誰にでも書ける。取材も資料もいらない。
原稿用紙と筆記具があればOKだ。
何しろ自分のことを書けばいい、あるいは自分が見たもの聞いたものを書けばいいのだ。
よく小説にはモデルがいるというが、私小説は自分がモデルだ。
主人公(つまり私)が、どうしようもないほどいい作品になる。
そこでヒモの登場だ。
女性にだらしなく、
金にだらしなく、約束事にだらしない。
この“三大だらしなさ”があれば私小説は生まれる。
文学作法なんて関係ない。
文法なんてジャマなだけだ。
例えば、朝起きた金がほしい、金がほしい、金がほしいをずっと原稿用紙に書く(10枚くらい)次に女を抱きたい、女を抱きたい、女を抱きたいをずーっと10枚位書く。
めんどくさい、めんどくさい、めんどくさいを10枚位書く。
腹が減った、腹が減った、腹が減ったを10枚位。
そこに暴力性が現れ、隣りに眠っている女性を売り飛ばすことを単純に考える。
いきなり蹴り飛ばして起して脅す、そして突然泣き出し、土下座し、書けないんだ、駄目だ、一緒に死んでくれ、もう駄目だと芝居をする。
やさしい女性は顔にアザをつくりながら、私をどこへでも売って、私が一生懸命稼ぐから、あなたは小説を書いて、今これしかないけどと言ってサイフから28,560円を出す。
ヒモはそれを手にしてまず560円でグイと酒を飲み、塩豆をかじる。
酒臭い体でバスに乗り場外馬券場(車券もある)に行き予想紙ダービーとか競馬エイトを買う黒競、青競の場合もある。
チビッた赤鉛筆をもらい耳にはさみコンクリートの上にベタッと座る。
手にした28,000円はバス代を払って27,680円になっている。
予想紙代と共に買った串カツと缶ビールで26,000円になっている。そこいらまでの風景や感情の動き、目にした人間やその周辺をメモしておく。
(記憶する)第一レースから第九レースまでカスリもしない。
途中でワンカップの酒を買い、フランクフルトソーセージとハムカツを買う。
残金は830円位しかない。
第十レースをどうするか予想紙はすでにクシャクシャである。
あいつを売ればいいんだ。
どうしようもない男は500円を手にして売ろうと思っている同居人の女性の誕生日3月8日にちなんで3-8を5枚買った。こんな生活をする人の中から私小説が生まれる。
スッテンテンのオケラになって安アパートの一室に帰ると、ナイフで手首を切った女性が赤い血の中で死にそうになっている。
この時どういう言葉でどう描写するか、これで私小説の出来不出来が決まる。
だが、私小説はここから始まる。

エイミー・ワインハウスはグデングデンに酔いながら、♪~恋は勝ち目のないレースと唄った。

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